初代藩主水野勝成

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刈谷藩初代藩主 水野勝成

 写真:水野勝成の肖像画
水野勝成(複製:原本は賢忠寺蔵)

水野勝成は永禄7年(1564)水野忠重の嫡男として生まれました。父忠重の姉は徳川家康の母・於大の方であり、勝成にとって家康はいとこにあたります。

血気盛んな青年時代を過ごし、天正9年(1581)の高天神城の戦いや天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いなどで手柄を挙げました。しかし、その血の気の多さにより、父から勘当され水野家を出奔し放浪の旅へと向かいます。

放浪時代には天正13年(1585)に豊臣秀吉に仕えたという記録がある他、後に九州に渡り佐々成政や小西行長に仕え、数々の戦いで戦功を挙げています。約14年もの長い放浪の末、家康の仲介により父と和解しました。しかし、その父が不慮の死に遭遇したため家督を継ぎ、慶長5年(1600)刈谷城主となりました。

慶長5年の関ヶ原の戦いでは前哨戦である大垣城攻めで功績を挙げ、慶長19年(1614)の大坂冬の陣、元和元年(1615)大坂夏の陣に出陣し、活躍しました。その報償として3万石加増の上、6万石の大和郡山藩へ転封。元和5年(1619)には更に石高が加増され、10万石で備後国へと転封となりました。

外様大名で占められている西日本では、西国鎮衛の役割を期待されての備後入封でした。そのためか、当時は既に一国一城令で新城築城は禁止されていたものの、幕府の特別の許可により福山城を築城しています。そして地名を「福山」と名付けました。同時に城下町の建設、上水道敷設、干拓による農地拡大や綿花栽培、藺草・畳表の生産などの産業を奨励し、領内の安定を図りました。また荒廃していた神社仏閣の修理や再建も積極的に行っています。寛永14年(1637)九州で島原・天草の一揆(島原の乱)が勃発します。幕府から出陣命令を受け、75歳の勝成は嫡男勝俊、孫の勝貞と3代で出陣をしました。

寛永16年(1639)勝成は隠居します。隠居後も領内の安定に心を配り、慶安4年(1651)88歳で没しました。

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