松本奎堂

ページID1006399  更新日 2022年4月19日

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刈谷で生まれた天誅組(てんちゅうぐみ)総裁

写真:松本奎堂の肖像画

松本奎堂(まつもとけいどう)は、天保2年(1831)刈谷藩士松本印南(いなみ)の次男として生まれました。青年期には尾張国沓掛村(現豊明市)の伊藤両村の門に入り、18歳のときには槍の試合中、あやまって左目を傷つけられました。その後、江戸に出て昌平坂学問所に学び、大変優秀な成績をあげました。勤皇の志強く、藩のいきかたにもあきたらず脱藩、文久3年(1863)天誅組3総裁の1人として38名の同志とともに兵を挙げました。この挙兵は失敗しましたが、のちの倒幕運動の魁(さきがけ)となりました。

松本奎堂関連史跡

松本奎堂碑(司町2丁目)

明治32年9月、刈谷士族会によって奎堂の旧屋敷跡に建てられました

松本奎堂歌碑(亀城公園内)

昭和18年に建てられました。松本奎堂辞世の句「君か為 命死にきと世の人に 語りつきてよ 峯の松風」が彫られています

刈谷偉人伝その1 幕末をかけぬけた刈谷の志士たち 維新の魁 天誅組

天誅組に関して、刈谷市では、刈谷の歴史啓発及び小中学校の歴史教材として『刈谷偉人伝その1 幕末をかけぬけた刈谷の志士たち 維新の魁 天誅組』を作成しています。郷土の偉人をアニメで大変わかりやすく紹介しています。(2010年製作)
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※刈谷偉人伝についての問合せは、刈谷市歴史博物館へ。

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