徳川家康の生母・於大

ページID1006403  更新日 2023年8月2日

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於大は、享禄元年(1528)刈谷城主水野忠政と於富の2番目の子として生まれました。
天文10年(1541)、勢力が衰えていた岡崎城主松平広忠は、織田氏に安祥城を攻め取られたのを機に、織田方である水野氏と親睦を図ることが賢明であると考え、忠政の娘である於大を妻に迎えます。
翌年、於大は岡崎城で竹千代(のちの家康)を産みます。慈悲深い於大は岩津(岡崎)の妙心寺に薬師如来の像を奉納し、竹千代の成長を祈りました。
そのころ、織田信長の父である信秀が、今川義元の大群を破ります。その翌年には、於大の父忠政が病死しました。跡を継いだ於大の異母兄である水野信元は勢いづいている織田氏を敵に回してまで松平氏と手を結ぶのは、不利と考え、松平氏と手を切ることを決めました。そこで広忠は妻の実家である水野家が織田側であることで、年来親しい仲にある今川氏から圧力を受けることを恐れ、涙を飲んで於大と離縁することを決めました。
於大は刈谷に戻ることになり、椎の木屋敷に住むことになりました。同じように離縁されて刈谷に帰ってきた姉と一緒に住んでいましたが、兄信元の薦めをあって、尾張国阿久比の城主久松俊勝と再嫁して3男をもうけました。
天正15年(1587)夫俊勝が岡崎城で亡くなり、西郡(現・蒲郡)の清田の安楽寺に葬られると、於大は夫の眠る安楽寺で授戒を受け伝通院と号しました。

絹本著色伝通院画像

写真:伝通院肖像画
絹本著色伝通院画像(楞厳寺・県指定文化財)

永禄3年(1560)、母華陽院の死を悼んだ於大が、母の像とともに描かせた肖像画です。2枚の画像は、一対として楞厳寺に納められたものといわれ、その手法には、室町末期の趣が感じられます。

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