加藤与五郎
日本のエジソン
加藤与五郎(かとうよごろう)は、明治5年、野田村西屋敷で生まれました。
生涯で300余りの研究を成し遂げ、フェライト磁石(酸化金属磁石)、フェライト製コア(酸化金属磁心)、アルミナ(酸化アルミニュウム)という世界的な三大発明をしました。これらは、テレビ・ラジオ、電話、磁気テープ、コンピューターなどに汎用され、現代のエレクトロニクスに不可欠なものとなっています。
このことから、与五郎は「フェライトの父」と賛辞され、多くの発明をしたことから「日本のエジソン」とも呼ばれ、世界の工業界に大きな貢献をしました。
与五郎はつねに独創的研究の重要性を唱え、私財を投じて財団法人加藤科学振興会などを開設して後進の指導にあたり、その業績に対し、国から文化功労者の栄誉を与えられました。昭和42年、熱海の自邸で永眠し、刈谷市の昌福寺で葬儀が営まれました。
その後、昭和55年に刈谷市功労者、平成12年に刈谷市名誉市民に推挙されました。
刈谷市野田町西屋敷に氏の生家跡があります。
「加藤与五郎展示室」は南部生涯学習センター内にあります。
刈谷偉人伝その3 フェライトの父 加藤与五郎 ふるさと刈谷を愛し続けた日本のエジソン
加藤与五郎に関して、市教育委員会では、刈谷の歴史啓発及び小中学校の歴史教材として『刈谷偉人伝その3 フェライトの父 加藤与五郎 ふるさと刈谷を愛し続けた日本のエジソン』を作成しています。郷土の偉人をアニメで大変わかりやすく紹介しています。(平成23年度作成)
価格:1,000円
※刈谷偉人伝についての問合せは、刈谷市歴史博物館へ。
加藤与五郎の生涯
年号 | 事歴 |
---|---|
明治5年 |
7月2日、野田村162番戸(現刈谷市野田町西屋敷139番地)加藤惣吉(農)長男として誕生。 |
明治12年 |
野田小学校に入学。妹とく誕生。 |
明治14年 |
母こう、チフスにて死去。本人もチフスにて大患。 |
明治16年 |
新しく母たかを迎えて小学校に通学を再開。 |
明治20年 |
小学校卒業小学校授業生(教師)検定試験に合格し鶴が崎(現碧南市)小学校授業学心得となる。 |
明治21年 |
高等小学校入学試験に合格して入学。 |
明治23年 |
碧海郡立高等小学校(後の亀城高等小学校)を卒業し野田小学校の授業生となる。 |
明治24年 |
授業生を退き、英語・数学を独学習得。 |
明治25年 |
京都の同志社ハリス理化学校大学部に入学。 |
明治28年 |
ハリス理化学校卒業。熊本の英学校の教師となる。 |
明治29年 |
仙台市東北学院の教師となる。(数学・物理・化学担当) |
明治32年 |
京都帝国大学に入学。 |
明治33年 |
福島県相馬市の菊池トラと結婚。 |
明治34年 |
アメリカのA・A・ノイス教授を京都で知り渡米を約す。 |
明治36年 |
京都帝国大学理工科大学純正化学科を卒業。渡米してマサチューセッツ工業大学ノイス教授の助手となり、電気化学を研究。W・D・クーリッジと知り合う。 |
明治38年 |
米国より帰国。東京高等工業学校嘱託。 |
明治39年 |
2月、父惣吉死去。10月、東京高等工業学校教授。 |
明治44年 |
コロイド化学研究にて理学博士の学位を受ける。 |
大正元年 |
東京高等工業学校電気化学科科長となる。 |
昭和4年 |
東京高工は東京工業大学に昇格。同大学教授に任命される。武井武と共にフェライトの研究を開始する。 |
昭和6年 |
高等官一等に叙せられる。 |
昭和8年 |
帝国発明協会より「酸化金属磁石」の発明に恩賜研究費がおくられる。 |
昭和10年 |
勲二等瑞宝章を受章。 |
昭和14年 |
東京工業大学に本人の寄付により資源化学研究所が付置され、初代所長となる。 |
昭和17年 |
東京工業大学を定年退官。 |
昭和18年 |
財団法人加藤科学振興会を設立する。 |
昭和27年 |
藍綬褒章を受章。 |
昭和32年 |
11月3日、文化功労者に選ばれる。 |
昭和35年 |
創造科学研究所を軽井沢に創立する。 |
昭和39年 |
日本大学顧問教授となる。同志社大学名誉文化博士の称号を受ける。勲二等旭日重光章を受章。 |
昭和41年 |
野田町の生家跡に顕彰碑が建立される。 |
昭和42年 |
8月13日午後4時、熱海の自宅にて永眠。(95歳) |
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