宍戸弥四郎

ページID1006400  更新日 2022年4月19日

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天誅組の合図係

写真:宍戸弥四郎の肖像画

宍戸弥四郎(ししどやしろう)は、天保4年(1833)1月14日刈谷藩士宍戸昌寿の6男として生まれました。諱は昌明、字は子精、通称弥四郎といいました。弥四郎は嘉永6年(1853)藩主に召されて江戸藩邸へ出仕しました。そこで幕士窪田清音に師事し、山鹿流の兵法を修めています。安政3年(1856)刈谷へ帰り、同6年に感ずる所があり致仕(役職をやめて隠居すること)しています。以後関東各地を歴遊し、文久2年(1862)深石数馬の塾頭にもなっています。同3年父の危篤の報を聞くや、江戸より徒歩3日間にして刈谷に着きますが、父の死には間に合いませんでした。しかし、人々は弥四郎の親を思う気持ちに痛く感動したと伝えられています。天誅組のなかでは合図係を務めたほか、最後には決死隊の副隊長も務めました。
現在、弥四郎の生誕地である広小路5丁目には記念碑が建てられ、墓は銀座4丁目の松秀寺にあります。

宍戸弥四郎関連史跡

宍戸弥四郎生誕の地(広小路5丁目)

宍戸弥四郎の生誕地には現在、碑が建てられています。

松秀寺(銀座4丁目)

曹洞宗のお寺で、釈迦牟尼仏を本尊とします。境内には、宍戸弥四郎の墓があります。

刈谷偉人伝その1 幕末をかけぬけた刈谷の志士たち 維新の魁 天誅組

天誅組に関して、刈谷市では、刈谷の歴史啓発及び小中学校の歴史教材として『刈谷偉人伝その1 幕末をかけぬけた刈谷の志士たち 維新の魁 天誅組』を作成しています。郷土の偉人をアニメで大変わかりやすく紹介しています。(2010年製作)
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