4.松本奎堂碑

ページID1001989  更新日 2021年8月13日

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松本奎堂碑(まつもとけいどうひ)

松本奎堂は、天保2年(1831)12月7日、刈谷藩で漢学と甲州流軍学の師である松本印南の次男として生まれました。名は衡、字は士権、通称謙三郎といい、奎堂は号です。18歳の時、藩の演武場で槍術の試合中左目を失明してしまいます。

嘉永6年(1853)8月、刈谷藩主利善が大坂加番から帰った時、奎堂は上書を提出して藩政の改革を求めました。安政6年(1858)に刈谷藩を脱藩して名古屋に塾を開き、文久元年(1861)には大坂へ出て、昌平黌の友人松林飯山・岡鹿門らと双松岡学舎を開きました。

翌年、京都で藤本鉄石・吉村寅太郎ら尊王攘夷派との親交をもつようになり、文久3年8月孝明天皇の大和行幸の詔を端に、奎堂は侍従中山忠光を盟主に藤本・吉村ら同士38人と挙兵しました。これが「天誅組」であり、奎堂は三総裁の一人でした。

碑は明治32年9月、刈谷士族会によって、奎堂の旧屋敷跡に建てられたもので、碑文は旧仙台藩士で奎堂の旧友であった岡鹿門によります。

写真:松本奎堂碑

史跡の位置

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