刈谷藩歴代城主

ページID1001974  更新日 2023年6月28日

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刈谷藩については、水野勝成のあと、分家水野家、深溝(ふこうず)松平家、久松松平家、稲垣家、阿部家、本多家、三浦家、土井家の9家22人の藩主が継ぎます。この藩主たちは、現在の会社員の転勤のように全国にわたって転封(てんぽう)していきます。
刈谷藩は、阿部氏の時代に最小の1万6000石、本多氏の時代に最大の5万石を領しています。
歴代城主のうち、主な人物をご紹介します。

水野忠清

天正10年(1582)水野忠重の4男として生まれました。水野勝成の弟にあたります。徳川家康の旗本として関ヶ原の合戦に参戦し、慶長7年(1602)には上野国小幡(現在の群馬県甘楽町)で1万石の大名となりました。大坂の陣でも軍功を挙げ、元和2年(1616)には水野勝成の跡をうける形で、刈谷2万石の藩主となりました。また、寛永3年(1626)には徳川家光の京都上洛に供奉し、後水尾天皇の二条城行幸に尽力しました。寛永9年(1632)、2万石加増の上三河国吉田(現在の豊橋市)に転封しました。寛永19年(1642)にはさらに加増をうけ、信濃松本7万石の大名となりました。正保4年(1647)に66歳で死去しました。菩提寺は江戸小石川の伝通院です。

松平(深溝)忠房

深溝(ふこうず)松平家は、徳川家康と先祖を同じくする松平一門で、深溝城(現在の幸田町)を本拠地としていたことからこのように呼ばれています。元和5年(1619)に三河吉田藩主松平忠利の子として生まれ、寛永9年(1632)に父の死去を受けて家督を継ぎましたが、同時に刈谷への転封を命じられました。刈谷藩主になると領内で総検地を行い、実際の石高を算定しました。また、寛永11年(1634)に将軍徳川家光が上洛した際には、池鯉鮒宿で饗応を勤めています。慶安2年(1649)には1万5千石を加増され丹波国福知山に転封、その後寛文9年(1669)には再度加増された上で肥前国島原に転封となっています。元禄11年(1698)に家督を譲って隠居し、元禄13年(1700年)に82歳で死去しました。菩提寺は幸田町の本光寺です。

松平(久松)定政

久松松平家は、徳川家康の母於大が松平家を離縁された後に久松家に嫁いだことから、松平姓を名乗ることになりました。慶長15年(1610)に生まれた松平定政は於大の孫にあたります。寛永10年(1633)には将軍徳川家光の小姓となり、将軍上洛にも供奉しました。寛永12年(1635)には伊勢国長島で7千石の領地を拝領しました。寛永13年(1636)将軍の近習となり、その後慶安2年(1649)には刈谷2万石の大名となりました。慶安4年(1651)に将軍家光が亡くなったことを受け嫡子定知と共に出家し、「能登入道不白」と名乗りました。出家した後は刈谷の領地の返上を申し出、さらに江戸市中を托鉢僧姿で廻りました。幕府からは「狂気」として処理され、領地没収の上久松家の本家である松山藩に預けられました。寛文12年(1672)に63歳で死去しました。久松家の菩提寺である松山の常信寺にお墓があります。

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