刈谷城を知る
刈谷城と城下町
天文2年(1533)水野忠政によって現在の亀城公園の地に築かれた刈谷城。
刈谷城が一体どんなお城だったのか、昔の刈谷はどんな町だったのか。各所の寸法が記入されている正徳期(1711~1716)の城絵図を中心に、元禄15年(1702)の城絵図も参考にして制作したCG(コンピュータ・グラフィックス)の映像を使って、知られざる刈谷城と城下町の様子をご紹介します。
この刈谷城復元CGはDVD「刈谷城復元CG 甦る刈谷城」として、1枚1,000円で発売しております。刈谷市歴史博物館、刈谷市郷土資料館および刈谷市役所3階文化観光課にて発売しておりますので、ぜひお買い求め下さい!
以下のページにて詳しく紹介しています!
- 札の辻(ふだのつじ)
- 町口門(まちぐちもん)
- 冠門(かぶきもん)・大手門(おおてもん)
- 御殿(ごてん)
- 辰巳櫓(たつみやぐら)・多門櫓(たもんやぐら)・表門(おもてもん)
- 裏門(うらもん)
- 戌亥櫓(いぬいやぐら)
1.札の辻(ふだのつじ)
高札の建てられていたところで、本町と中町の境でした。また、寺横町と南横町がこれに交わり辻になっています。この辻の北西に高札があったことから札の辻といわれ、この先が城下町のメインストリートになります。
(銀座4丁目交差点付近)
2.町口門(まちぐちもん)
肴町と本町の通りを降りてきたところに広くつながった広場があり、そこから階段を上って町口門を通って城内に入ります。城下町と城内を分ける中心の門であり、門を入った左手に番所がおかれ、町人は鑑札がないと通行できませんでした。昼七つ時(16時ごろ)から閉ざして通行を禁止しました。
(銀座5丁目付近)
3.冠門(かぶきもん)・大手門(おおてもん)
町口門から本丸に向けて進み、冠門をくぐって右に折れたところにある大手門は、城郭の表の正門にあります。大手門を通り左に折れると本丸へと続き、門の前には番所があり、通ることができるのは藩士のみでした。
(亀城小学校校庭南)
4.御殿(ごてん)
藩主が在城している時は生活の場であり、藩士たちが通い政務をつかさどる場所でもありました。残されている平面図によると、大書院、小書院、表御居間、湯殿、女中部屋、台所などの名称がみられます。
(亀城小学校校庭)
5.辰巳櫓(たつみやぐら)・多門櫓(たもんやぐら)・表門(おもてもん)
辰巳櫓(南東隅櫓)を中心に両側に多門櫓が続いていました。多門櫓は渡り櫓ともいわれ、渡り廊下のようになった建物で倉庫も兼ねていました。その両側は表門と裏門につながっていましたが、宝永4年(1707)の宝永地震で倒壊したとされます。
表門は本丸に入る中心的な門で、明治初年の払い下げの史料には本丸西門とあります。現在の亀城公園の高い庭園になった部分、当時の本丸部分ですが、ここに上がる坂道の途中、やや右側にあったと思われます。
(亀城公園内)
6.裏門(うらもん)
明治初年の払い下げの史料には本丸東門とあります。
(亀城公園中央の階段付近)
7.戌亥櫓(いぬいやぐら)
江戸時代前期まであった戌亥櫓(北西隅櫓)。大きさは一層目が四間×五間、二層目が三間四方とあります。おそらくこの戌亥櫓からは衣ケ浦を見通して知多まで見渡すことができ、天守のような役割をもっていたものと思われます。現在の十朋亭が建っているところになります。
(十朋亭)
より詳しい刈谷城の情報
より詳しく刈谷城の城郭の位置を知りたい方は以下のページをご覧ください。
今のどこに刈谷城があったのか、詳しく知りたい方は以下のページをご覧ください。
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