刈谷城築城までのかりや

ページID1001971  更新日 2023年6月28日

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刈谷が城下町として発展するまで

刈谷市域では、衣ヶ浦が北に深く入り込んだ東側に位置していることから、本刈谷貝塚、八ツ崎貝塚、芋川遺跡など碧海台地のへりに沿って古くから集落が形成されていました。

地図:遺跡の古地図
衣ヶ浦と縄文時代の遺跡(緑色の部分が現在の刈谷市域)

水野氏の刈谷への進出

文明8年(1476)頃、衣ヶ浦を挟んだ西側にあった緒川城(東浦町)の城主であった水野貞守(さだもり)が刈谷に進出して、現在の本刈谷神社の北にあたる場所に城を築きました。これが最初の「刈谷城」です(ここでは後々、説明する現在の刈谷城と区別するため「刈谷古城」とします)。
城といっても館(やかた)程度であったと思われますが、これは衣ヶ浦をめぐる水運を利用した勢力拡大を図ったものだろうと考えられています。

水野忠政・於大・水野勝成の時代

その後、天文2年(1533)にこれまでの城が手狭になったという理由で、現在の亀城公園の地に水野忠政(ただまさ)が築城しました。これが現在の「刈谷城」になります。まだ、この頃は村の形成がされていた程度であったと思われます。

写真:周辺航空写真
刈谷古城(最初の刈谷城)と現在の刈谷城の位置

このようにして、刈谷の礎(いしずえ)は築かれました。この後、刈谷は本格的に城下町として発展していきます。

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