天誅組とは?

ページID1001983  更新日 2021年3月1日

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幕末、新しい時代をひらくことに命をかけた若き志士たちがいた。

イラスト:志の字と流水紋

幕末の動乱期、朝廷が政治の表舞台に台頭するようになり、幕府の権威が徐々に失われていきました。その中、公家の中山忠光を中心に志士たちが団結し、天皇を中心とした国づくりを目指して一つの集団が立ち上がりました。
この集団を天誅組といいます。
文久3年(1863)、孝明天皇の大和行幸の詔を受け、天誅組は先に大和入りをして幕府領を平定し、行幸をお迎えしようと考えました。そこで、大和国の五條代官所を襲撃し、「五條御政府」をおきました。幕府の出先機関を倒し、いわば新政府を築いたことが、のちに天誅組が「維新の魁」と評される由縁になっています。
しかしながら、行幸の直前に朝廷内でクーデターが起き、行幸中止が断行され、天誅組は朝廷・幕府から逆賊として討伐を受ける側に立たされました。天誅組は敗退を続け、現在の奈良県東吉野村において、壮絶な最後を遂げることとなりました。

この天誅組には、刈谷藩を脱藩した松本奎堂や宍戸弥四郎らが参加しています。松本奎堂は総裁として、宍戸弥四郎も軍の合図係として活躍し、最期は天誅組と運命を共にしました。当時は逆賊の汚名を受けましたが、明治へと時代が変わる中で、彼らの行動が評価されるようになりました。
現在も東吉野村の村人たちを中心に顕彰活動が行なわれ、慰霊碑の維持、顕彰祭の開催などの活動が行われています。

刈谷偉人伝その1 幕末をかけぬけた刈谷の志士たち 維新の魁 天誅組

天誅組に関して、刈谷市では、刈谷の歴史啓発及び小中学校の歴史教材として『刈谷偉人伝その1 幕末をかけぬけた刈谷の志士たち 維新の魁 天誅組』を作成しています。郷土の偉人をアニメで大変わかりやすく紹介しています。(2010年製作)
本編は文化観光課で1,000円で販売しています。
※刈谷偉人伝についての問合せは、文化観光課文化財係へ。

「ゆかりのまち友好市町村盟約」

刈谷市は、刈谷町の時代から慰霊碑の建立や顕彰祭等を通じて東吉野村と交流を続けてきました。平成25年度が天誅組の義挙から150年という節目を迎える中、天誅組の研究事業や顕彰事業をはじめ自治体間の交流を深めることを目的に、東吉野村と「ゆかりのまち友好市町村」である旨の締結を行いました。

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文化観光課
〒448-8501
刈谷市東陽町1丁目1番地
電話:0566-62-1037 ファクス:0566-27-9652
文化観光課へのお問い合わせは専用フォームをご利用ください。

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