近世2(江戸時代の刈谷)

ページID1007671  更新日 2022年3月23日

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江戸時代の刈谷の村々を地域ごとに解説します。

江戸時代の刈谷

北部(鎌倉街道周辺)

刈谷北部1周辺地図

東海道が通る今川村・今岡村の北には、中世の幹線道である京鎌倉往還(鎌倉街道)が通った西境村、東境村と、井ヶ谷村があります。この3か村は、様々な領主が交代で治めていたところで、そのうち多くの期間を同じ村内でも複数の領主が存在する相給(あいきゅう)村となっていました。西境村絵図を例にみると、江戸時代後期の西境村は旗本の加藤氏と沼津藩水野氏の相給となっていて、田畑ごとにどちらに年貢を納めるかが決められていました。

北部は自然豊かで、農業や林業が営まれていました。しかし、水源に悩まされた地域でもあり、ため池が多くつくられました。井ヶ谷村では、土井利徳が藩主の時代に境川の浸食谷をせき止めて洲原池がつくられています。

北部(東海道周辺)

刈谷北部2東海道周辺地図

今岡・今川・一里山の村々は、村内を東海道が通っていました。今岡村は、天正年間に寺社が建てられて発展し、高札場も設けられていたようです。今川村は池鯉鮒・鳴海宿の間の茶屋町として栄えました。そこでふるまわれた「いもかわうどん」は、一説にはきしめんのルーツともいわれています。

逢妻川沿いの泉田村には荷揚げをする土場があり、河川を利用した物流の拠点となっていました。築地村一ツ木村の辺りでは、逢妻川周辺で水を取り込みやすく、田畑や新田が広がっていました。

中部

中部・南部画像

刈谷市中部地域は、江戸時代、刈谷藩領の中心地域でした。具体的には、城下町の刈谷町、その周辺の元刈谷村、熊村、高津波村、小山村、下重原村のことを指します。特に、城付四町村と呼ばれる刈谷町、元刈谷村、熊村、高津波村は、刈谷城内の掃除役や藩主交代の費用工面など、他の村には見られないような特別な役を課せられました。

1792年に寛政の一揆の責任を取らされ一部の市域の村が陸奥福島藩領となりましたが、中部地域では下重原村のみ福島藩領となり、それ以外の町村は幕末までずっと刈谷藩領でした。

南部

猿渡川以南の地域は、海(衣ヶ浦)に近いこともあり、新田開発が盛んに行われました。もとは小垣江村野田村のみでしたが、慶長年間(1596~1615)に半城土(はじょうど)が野田村より分かれました。その後、慶安年間(1648~1652)以降に高須村が小垣江村から分かれました。市域最南部の犬ヶ坪(いぬがつぼ)村は1658年に小垣江村から分かれたとの記録もありますが、刈谷藩は1684年の分村(として扱っていました。一方幕府は幕末()(まで小垣江()村・吉浜村の一部と認識していました。

この地域は、吉浜・高浜(高浜市)や高棚(安城市)との繋がりが深く、1791年の刈谷藩と陸奥福島藩との領地替により、幕末まで福島藩領として重原陣屋の代官による支配を受けました。

相給(あいきゅう)とは

西境村相給画像

年貢などは、ひとつの村を単位として村全体の責任で領主に納めることになっていましたが、その村に二人、三人・・・と複数の領主が割り当てられた状態のことを相給と言い、その村を相給村や入会村と呼んでいます。

支配領域は、村の面積を等分したり道などで区切ったりして分けるのではなく、年貢収入など各田畑の良し悪しなどを考えてひとつずつ決められていたので、相給となった村ではモザイク画のような領地がかたちづくられました。村役人も所属する領主ごとに任命される場合があり、村内での人間関係も複雑になっていました。

刈谷では、北部3か村が時代ごとに様々な組み合わせで、長く相給による支配を受けていました。

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