近世1(刈谷藩)
刈谷藩を治めた9家について解説します。
刈谷藩
水野家
水野家は徳川家康の母於大(おだい)の実家であり、於大の父忠政(ただまさ)・兄信元(のぶもと)の時に、衣ヶ浦周辺に勢力を広げました。於大の弟忠重(ただしげ)は、豊臣秀吉に仕え、今岡村を開発するなど刈谷の発展に力をつくしました。
江戸時代には、徳川家の親せきとして、大名や旗本になる者が多数おり、幕府の重要な役職についた者も多くいました。中でも水野勝成(初代刈谷藩主、のち備後福山藩主)、水野忠成(ただあきら)(駿河沼津藩主)、水野忠邦(遠江浜松藩主)が有名です。
沼津水野家
沼津水野家は、水野勝成の弟である忠清から始まります。忠清は兄勝成が大和郡山藩主となったのちに刈谷藩主となり、三河吉田藩をへて信濃松本藩7万石の藩主となりました。しかし、忠清の玄孫(やしゃご)である忠恒(ただつね)が、江戸城松の廊下で刃傷事件を起こし、改易(※1)されました。
改易されたのち、忠恒の叔父忠穀(ただよし)が旗本(※2)として家名を相続しました。忠穀の子忠友(ただとも)が老中田沼意次(おきつぐ)を支えた功績により三河大浜で再び大名となると、駿河沼津藩にうつり領地も3万石に増やされました。
忠友の後をついだ忠成(ただあきら)は、11代将軍徳川家斉(いえなり)の時に老中(※3)となり、領地も5万石に増えました。沼津水野家は、幕末まで駿河沼津藩をおさめました。
※1改易(かいえき):大名の身分と領地を没収されること。
※2旗本(はたもと):将軍の家来で、一万石未満の武士のうち直接将軍に会える者。
※3老中(ろうじゅう):江戸幕府に常に置かれた役職の最高職。
深溝(ふこうず)松平家
深溝松平家は、戦国時代より三河額田郡深溝(現幸田町)を領地としていました。
4代当主の松平家忠の妻は、水野信元の弟である忠分の娘でした。家忠がのこした「家忠日記」には、刈谷・緒川の水野家と深溝松平家との交流が記されています。
家忠の子で5代当主忠利のときに三河吉田藩へうつされ、初代藩主となりました、忠利の死後、子の忠房があとをつぎますが、1632年に水野忠清との領地がえで刈谷藩へうつりました。忠房は、1649年に丹波福知山藩へ移されるまで17年間刈谷藩3万石を治めました。
忠房は丹波福知山藩主のあと、最後は肥前島原6万5千9百石の藩主となりました。その後、深溝松平氏は10代忠祇(ただまさ)のときに下野国宇都宮にうつりましたが、次の11代忠恕(ただひろ)は再び肥前島原に戻り、明治時代まで続きました。
久松松平家
久松松平家は、徳川家康の母於大(おだい)とその夫である久松俊勝の子からつらなる家で、江戸時代のはじめは伊勢国桑名・長島を治めていました。定勝の六男定政は1635年長島7千石をもらい、新田開発を進めます。1649年に加増されて刈谷藩2万石の大名となりました。
3代将軍家光が亡くなると、生活に困った武士が幕府を倒そうとするなど、社会が不安定になりました。定政は、そんな世の中の乱れを心配し、家光から受けた恩に報いるため、出家して僧侶となり幼い将軍家綱を補佐する側近らに困った武士を助けるように訴えました。しかし、定政が突然出家したり江戸を僧侶の姿で訴え歩きまわったりしたことを気が狂ったとして、定政は蟄居(ちっきょ)(※1)させられました。そして、新たに稲垣氏が刈谷藩主として越後国三条から移ってきました。
※1蟄居:武士または公家に対して科せられた刑罰のひとつで、家への出入りを禁じ、自宅の一室で謹慎させるもの。
稲垣家
稲垣家は、1651年に久松松平家に代わって刈谷に移り、約半世紀にわたりこの地を治めました。
初代稲垣重綱は、刈谷に来る前も上野国伊勢崎・越後国藤井や三条の藩主を務めるなど、転封(※1)の多い大名でした。2代重昭(重綱の孫)は、家督を継いだときに叔父の茂門に3千石を分け与えたため、刈谷藩領は2万石に減りました。
この後、碧海郡内での新田開発が進み、茂門に追加で1千5百石を分け与えているほか、3代重富の代には6千石もの余剰収入があったとされ、領内の開発が進んでいました。
※1 転封:幕府の命令で領地を移転すること。
阿部家
阿部正春は1702年の9月に刈谷藩主となり、1710年まで正春と子どもの正鎮(まさたね)が藩を治めました。
正春の父重次は武蔵岩槻藩9万9千石を治め、3代将軍家光のときには老中になるなど、有力な大名でした。正春は次男でしたが、兄定高の死によりおいの正森(正邦)が成長したら領地を返すという条件で、あとをつぎました。正春は、正森(正邦)が成長した後、領地を正森(正邦)に返しました。そして、正春は旧領地の上総大多喜1万6千石に戻り、その後刈谷にうつりました。
本多家
本多家は徳川四天王の一人であった本多忠勝を祖としています。8代忠良(ただなが)は越後村上15万石の大名でしたが、末期養子(※1)であったため5万石に減らされ、1710年に刈谷へ移りました。しかし、刈谷藩は5万石もなかったため、近江国にも領地をもちました。忠良は1712年に下総古河へ転封となりました。本多忠良は、6代将軍家宣の側用人、8代将軍吉宗の下で老中となるなど、幕府の中でも活躍しました。
本多家は、忠良死後に石見浜田、岡崎へと移り、幕末まで続きました。
※1末期養子:家が断絶することを防ぐため、後継ぎのいない当主が死の直前に養子を迎えること。
三浦家
三浦明敬(あきたか)は、1712年に日向延岡より刈谷へ転封となりました。明敬は、1719年に朝鮮通信使が領内の東海道を通ったときには、東海道赤坂宿(豊川市)で接待役を務め、刈谷町の上級商人に接待のために必要な高級な品々を差し出させました。
3代目の義理の代には、藩の財政がとても苦しくなりました。1738年には財政を豊かにするために年貢を集める方法を変えようとしましたが、農民側はこれに反発し一揆を起こし、藩政改革は失敗に終わりました。1747年には西尾へうつりました。
土井家
1747年に土井利信が西尾よりうつり刈谷藩主となりました。以後幕末まで土井家が刈谷藩を治めます。土井家の祖先は江戸時代初期の重臣土井利勝で、下総古河藩の大名でした。刈谷藩を治めた土井家はその分家筋にあたります。
土井家が移ってきた当時の刈谷藩は、とても財政が苦しくなっていました。1790年には財政を立て直すために、新たに税金を課しましたが、それに百姓が反発し大規模な百姓一揆がおこりました。土井家は、領内で一揆がおきたことの責任として、領地2万3千石のうち、1万3千石が召し上げられ、石高が少ない陸奥福島藩と領地交換させられました。(のちに、土井家が幕府にお願いし、3千石は三河へもどりました。)
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