縄文・古代・中世

ページID1007669  更新日 2021年4月12日

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縄文時代

縄文時代の刈谷

刈谷の縄文遺跡地図

刈谷市は、愛知県内でも縄文時代の遺跡が多い地域として知られています。特に、逢妻川ぞいの台地には多くの貝塚が残されており、そこから縄文土器や石器など、当時の生活道具がたくさん見つかりました。八ッ崎貝塚・天子神社貝塚(小山町)、山の神遺跡(山池町)、芋川遺跡(一ツ木町)、本刈谷貝塚(天王町)は「刈谷西部の縄文遺跡」として愛知県の指定史跡になっています。

縄文時代は、現在よりずっと奥まで入り江になっており、陸地との境にはハイガイやマガキなどがすむ干潟(ひがた)が広がっていたため、人びとはさかんに貝を採って暮らしていました。

古代~中世

井ヶ谷古窯(いがやこよう)

井ヶ谷古窯

刈谷市北部の井ケ谷地区を中心とした地域では、奈良時代から鎌倉時代にかけて、さかんに陶器が生産されていました。陶器を焼く窯跡(かまあと)は、これまでに77基が発見され、そのうちの31基が市の史跡に指定されています。

最も古い奈良時代には、須恵器(すえき)を焼いていました。その後、平安時代前半に最も生産が盛んになりました。仏具などの金属器をまねた、さまざまな形の灰釉陶器(かいゆうとうき)(※)を焼いていましたが、しだいにおわんやお皿などの食器を焼くようになりました。平安時代後半から鎌倉時代前半にかけては、山茶わんとよばれる釉薬(うわぐすり)を使わないおわんやお皿を大量に焼くようになりましたが、短い期間で生産を終えました。

※灰釉陶器(かいゆうとうき)…植物の灰を原料にした釉薬を掛けて焼かれた陶器

重原荘

重原荘エリア写真

重原荘は、刈谷市域や知立市、豊田市・安城市の一部を含む広い地域を範囲とした荘園です。鎌倉時代、重原荘を含む三河は後鳥羽上皇の母七条院が治めていました。ここには地元の領主として、地名から重原氏を名乗る武士がいました。重原氏は、1213年京都法勝寺の九重塔開眼供養の際、後鳥羽上皇の護衛に参加し、その後も鎌倉幕府打倒のために承久(じょうきゅう)の乱(1221)を起こした後鳥羽上皇のもとにはせ参じましたが、敗北して没落してしまいます。

乱後は、二階堂氏が重原荘の地頭となったほか、幕府の有力者である足利義氏が三河国に入り、足利一門や得宗(とくそう)(執権北条氏当主の家系)の所領が広がりました。建武の新政では、足利尊氏領となり、大仏(おさらぎ)氏が地頭に任命されています。

鎌倉街道

鎌倉街道ルート地図

古代の東海道をもとに整備された京都と鎌倉とをつなぐ幹線道路です。刈谷市内では西境・東境村を通っていたと考えられており、1601年に徳川家康が定めた近世東海道と区別して「鎌倉街道」とも呼ばれています。

鎌倉時代には、年貢や京都―鎌倉間の連絡を行う使者、軍勢、公家・僧侶といった旅行者などが行き交っていましたが、八橋宿(現知立市)の衰退や山道を避けるルートの開発などによって街道は南に移り、室町時代には今川・今岡・一ツ木村を通る道が使われるようになりました。

祖母神社(東境町)のところは、「鎌倉街道伝承地」として刈谷市の指定史跡になっています。

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