村上文庫と図書館の創設
更新日:2016年8月6日
村上文庫と図書館の創設
大正6年頃 図書館創立に関わった人々
刈谷の図書館の起源について
刈谷の図書館の起源は、大正3(1914)年、刈谷に住む
その後、図書館は大正4年(1915)年11月23日に県から認可され、「刈谷町立刈谷図書館」として創立しました。また、その後約1年をかけ、膨大な古書を整理分類する一大事業を行い、大正6(1917)年7月に図書館は、めでたく開館することができました。当時の図書館は二階建ての書庫に木造の閲覧室と事務室を有した建物で、日曜のみ開館する施設でした。
地元の厚志者たちによって創られた小さな図書館は、当時の刈谷に文化の息吹をもたらし、現在の姿へと引き継がれています。
村上文庫とは
土井氏時代(1747~1871)の刈谷藩医であり、国学者であった
貴重本
住吉物語
図書館創立に関わった主な人々
宍戸俊治(ししどしゅんじ)
慶応2年(1866)5月12日上重原村の宇都宮家に生まれる。のち宍戸家を継ぐ。
明治15年12月上京して東京帝国大学予備門に入り、同22年第一高等中学を出て、同26年11月東京帝国大学医学部を卒業し、病理学を極めるため同大学院に入る。義父隆一の死にあたり同28年7月刈谷に帰り宍戸療院を開業する。同36年10月愛知県医師会副会長並びに副議長に推され18年間在職する。また三河郷友会理事として後進を助け、町会議員、実業同志会長、碧海郡教育会副会長、亀城研究会長、刈谷士族会副会長など公私にわたって尽力した。また率先して私財を投じて各種公共事業に尽くし、郷党の先駆者・開拓者として評判が高い。
参考:かりや市民だより平成18年2月15号、『刈谷図書館の村上文庫』森銑三先生講話要項 (刈谷市教育委員会/編,刈谷市教育委員会 1964年)
藤井清七(ふじいせいしち)
文久3(1863)年7月25日碧海郡刈谷町大字小山に生まれる。4代清七、
藤井殖産合名及合資会社の代表社員、碧海貯蓄銀行及び碧海銀行の監査役となり財界において活躍した。後に、刈谷町長となり町政自治のために尽力し、特に刈谷中学校と刈谷高等女学校の創設に関して力を発揮した。宍戸俊治氏と共に「村上文庫」2万5千冊余りを村上家より購入し、書庫・閲覧室とともに刈谷市(当時刈谷町)に寄付を行った。昭和20年2月1日没。
参考:『碧海知名人士録』 中根義二/編 (中根義二)
高須鉈吉(たかすなたきち)
元治元年(1864)4月23日刈谷に生まれる。号を碧海と称した。
明治15年2月愛知県師範学校を卒業し、刈谷尋常小学校に赴任した。新しい師範学校卒業の訓導(旧制小学校の教諭)として目覚しい活動をし、厚い人望を得る。同34年11月富山県
引用:かりや市民だより平成14年12月15日号
森 銑三(もりせんぞう)
明治28年9月11日刈谷町の肴町(現広小路6丁目)に生まれる。大正5年、数え年22歳の頃、刈谷町立図書館に臨時雇いとして寄贈されていた
参考:かりや市民だより平成15年6月15日号、『刈谷図書館の村上文庫』森銑三先生講話要項 (刈谷市教育委員会/編,刈谷市教育委員会 1964年)
井野直治(いのなおはる)
明治14年2月11日、碧海郡刈谷町大字刈谷字本町に安右衛門の長男として生まれる。
慶応大学理財科に在籍したこともあり、新しい文化的知識を持ち、常に皆から人望があつかった。趣味であった古書画の鑑識には一目おくものがあったといわれる。明治42年7月から大正9年7月まで刈谷町会議員を3期にわたって勤めたあと、昭和3年5月から昭和11年5月まで2期にわたって刈谷町長を勤めた。昭和31年8月28日没。直治の父、祖父は安右衛門を襲名し、祖父安右衛門は明治元年に刈谷藩から御用達を命じられている。
引用:かりや市民だより平成17年10月15日号
岡本廣太郎(おかもとこうたろう)
慶応2年(1866)12月8日刈谷に生まれる。父は瀧三郎といい、刈谷町の庄屋を勤め、酒造業を営んでいた。広太郎は学問を好み、心が広く、人をまとめるのに優れていたといわれる。
明治44年9月から大正元年7月まで刈谷町議会議員を勤めたあと、同4年6月に刈谷町長に推され同8年9月まで勤め、そのあと再び同10年7月から同12年1月まで町長を勤めた。刈谷中学校・刈谷高等女学校の設立に際し、多くの難題を乗り越えてその目的を達成した。また、豊田紡織株式会社の設立に尽力するなどその功績は大きかった。
その当時の刈谷町は元刈谷、熊、高津波、小山、重原などがその町域で、それぞれ利害を異にするためにこれらを統括するのは大変であったといわれる。大正12年3月29日没。
引用:かりや市民だより平成17年12月15日号
