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初雁と松本どん

更新日:2012年12月21日

三人の追っ手

「こっちだぞう」

先頭の侍が、二人の侍に声をかけました。

「おう」

長身の二番目がこたえます。

「松本め」

ずんどうの三番目です。

 どうやら、三人はだれかを追いかけているようです。

 人影が三人の行く街道沿いの小さな森に見えます。小柄な三十歳くらいの浪人(ろうにん)で、息をはずませています。

「はぁ、はぁ」

汗とほこりにまみれ、左手と両足から血が流れています。追っ手から逃げ、キツネのように木陰に身を隠します。苦しそうです。

初雁と松本どん挿絵1

追っ手の三人は手に刀を持っています。刈谷藩の侍で、青色の羽織姿です。

 ときは幕末、文久三年、一八六三年。ところは三河の国は刈谷の南、「よさみが原」です。

 逃げてきた浪人が身を潜めていますと、三人足音が止まりました。浪人は自身の心臓も止まるのではないかと思いました。

「まだ、遠くまでは逃げられんはずだ」

先頭の侍の声です。

「追え」

三人の追っ手は、西に傾いた太陽を背に、東へ走っていきました。東は後に「日本デンマーク」と呼ばれる「安城が原」です。

三河の国よさみが原

 「よさみが原」は刈谷の南に位置する碧海(へっかい)台地です。猿渡(さなげ)川の東に数十戸の農家が点在しています。

 松林が広がる原野ですから、人間よりキツネとタヌキの数が勝っています。よさみが原の人々は、キツネとタヌキをあわせて「狐狸(こり)」とよびました。「狐(こ)」はキツネ、「狸(り)」がタヌキです。

 人がキツネとタヌキをだますことはめったにありませんでした。ふつうはキツネとタヌキが人をだましました。キツネとタヌキ以上に人をだましましたのは人でした。

 「よさみ」は風変わりな地名です。海の波と川の波が「相寄せるところ」から出たそうです。「よさみが原」の海は三河湾西部の衣浦(きぬうら)湾、川は猿渡川です。

 百五十年も昔の電気や水道のない時代です。明治用水が台地を潤すのに、あと十七年待も待たなければなりません。のちにあたりの農地は「日本デンマーク」と呼ばれました。

 農家にとって水は血液ほど大切です。農家につるべ井戸が、田畑の近くには二十ほどのため池が見えます。田畑に水を引くための人が作った池です。村と村、近所同士の騒動の原因はたいてい水の取り合いです。夜中にため池の水の堰(せき)を切ったり、切られたりします。しかし、水の堰を切るのはキツネやタヌキの仕業(しわざ)ではありません。

勤王の志士・松本どん

 逃げてきたやせた浪人は、刈谷藩出身の松本某(まつもと・ぼう)といいました。

 「浪人」といっても、受験生のことではありません。仕える主君を持たず、給料をもらえないお侍さんのことです。「某」というのは、わからないときに使う言葉です。

 三人の追っ手は幕府を倒そうとする者を捕らえることを目的とした侍の集団です。有名なのが京都の新選組(しんせんぐみ)です。新選組はドラマでは有名ですが、怪しい浪人を見ると幕府を後ろ盾に情け容赦ない拷問(ごうもん)を行い、恐れられました。

 松本どんは幕府が支配する世の中がいやでしかたありませんでした。将軍にかわる天皇の世をつくろうと考えました。天皇に尽くすというので勤皇(きんのう)、幕府を倒すというので、倒幕(とうばく)と呼ばれました。

 三十歳になったばかりの松本どんは、妻と幼い子どもを刈谷に残し京都に出ました。父と母にもいとまを告げました。二年前のことです。そして、理想とする世の中を作ろうと、同志と語らって吉野、現在の奈良県に四十人ほどで兵を挙げました。

 松本どんは、中国の「三国志(さんごくし)」の諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を尊敬していました。孔明は千七百年前の軍師(ぐんし)です。松本どんは、孔明を習い、同志の定めごとである軍令書(ぐんれいしょ)を書きました。全体の指揮をとる総裁(そうさい)の一人でもありました。

 彼ら吉野に兵を挙げた「勤王の志士」は、後に「天誅(てんちゅう)組」と呼ばれます。「天誅」とは、天に代わってお仕置きをする、という意味です。

 天誅組は映画やドラマになった「新選組」ほど有名ではありません。しかし、有名でないから価値が低いわけではありません。

 松本どんたちは最初のうちはいくさにも勝ちました。が、高取城(たかとりじょう)の戦いで失敗をしました。休憩なしで軍を進め、おそまつな武器で低い土地から山城に向かって戦さをしかけたからです。同志の連絡が悪くなり、意見が分かれ、仲間割れをしました。食糧と武器が尽き、病に苦しみました。同志のほとんどが刃と銃弾に倒れました。

水とんの術

 松本どんは命からがら、吉野から三河まで百キロ以上の道のりを、四日もかけて逃げ帰ってきたのです。

「どうしたものか」

 松本どんはつぶやきました。追っ手は引き返してくるでしょう。疲労とけがで走れません。松本どんは左目が見えない上、右足も不自由でした。

 後ろを振り向くと、ため池がありました。水は土でにごっています。水辺に茂ったアシを短刀で数本切り取りました。アシの茎は竹のようになっています。

 そのとき、追っ手の三人が森のため池までやってきました。松本どんが見つからないので、戻ってきたのです。

 一刻の猶予(ゆうよ)もなりません。松本どんは傷の痛みをこらえて、ため池に入りました。アシを口にくわえ、音を立てないように池に全身を沈めました。アシの先端が水の上に出ます。

 追っ手は木の根元と草むらを探します。三人の話し声が近くに聞こえます。水中の松本どんは息苦しくなってきました。しかし、いっこうに立ち去りません。もう、限界です。

「これまでよ」

と松本どんが観念したとき、白いものが森のササをザザッと鳴らしました。

「いたぞっ。松本だー」

人影らしい影が、街道にかけていきました。三人は後を追います。白い影を刀がびゅっとかすめた音を、松本どんは水中で聞きました。

 水面から顔を出した松本どんは、やっとのことで池の岸にはい上がりました。そして、木の根元で泥のように眠りました。

 その日、追っ手はやってきませんでした。

白ギツネ・初雁

 朝日のまぶしさを感じて、松本どんは目を開けました。おなかがすいていましたが、傷が痛み動けません。左目も痛みます。

 刈谷の母・きかの顔が目に浮かびます。読み書きと三味線を教えてくれた優しい母です。

 だれが置いていったのでしょう。枕もとに握り飯、木の実、そして目ぐすりが置いてありました。空腹の松本どんはいぶかしく思うよりも、むさぼるように握り飯を食らいました。

 ひといきついて、生きた心地がしました。目ぐすりをさしました。くすりは三好村の馬嶋明眼院の袋に入っていました。

 あたりを見回すと、木陰に白ギツネが見えました。賢そうな表情のキツネです。

「置いてくれたのは、おぬしか」

松本どんは声をかけました。

「コーン」

と白ギツネが声をあげました。

「礼をいう」

白ギツネが3歩近づきました。

「わしは刈谷の松本と申す者」

松本どんは四日ぶりに話をしました。

「私は初雁(はつかり)といいます」

と白ギツネが答えました。

 当時、人と動物が話をするのは、珍しいことではありません。初雁はしっぽの先がありませんでした。

初雁と松本どん挿絵2

「初雁とな、さて、どこかで聞いたような」

「松雲院(しょううんいん)で助けていただきました」

 十五年ほど前、松本どんが十八のときです。

 刈谷の三浦の殿様が鷹(たか)狩りの途中で、恩田の松雲院に立ち寄りました。松本どんは殿様の家来にいじめられていた白ギツネの親子を助けたことがありました。

「あのときの松雲院の子ギツネか」

 鑓(やり)の試合で左目を傷つけた松本どんは、ギツネ母子が他人とは思えませんでした。

「初雁とは良い名じゃ」

「コーン」

 「初雁」の「雁」は渡り鳥の「カリ」です。刈谷は古く「雁屋」(かりや)と書かれました。「かりがね」はカリの鳴き声です。ことばの起こりはともに鳥の「カリ」です。

「十五年前か」

 松本どんは懐かしそうに初雁の表情をのぞき込みました。刈谷の武家屋敷で父母とつつましく暮らしていたころです。

「やっかいを起こし、箱根におりました」

 初蓮(はつれん)が東北奥州の姫君にばけ、三浦の殿様の刈谷城で騒動を起こしたことは、刈谷で知らぬ人はおりません。

「ところで……」

松本どんは「恩田の初蓮には豊川稲荷もかなわぬ」という歌を思い出しました。

「初蓮はどうした」

初雁の目がしばたきました。

「箱根で侍に切られました」

初雁の毛並みの白さは初蓮譲りです。

「それは気の毒をした」

「それで、松雲院へ帰る途中です」

初雁は、初蓮より身のこなしが速そうです。

「おぬしは一人ぼっちか」

「コーン」

 初雁は悲しそうに声を上げました。

野田村の八幡宮

 松本どんは、森の中に木とわらで外からそれと分からないように小屋をつくりました。

 近くの畑までは村人がやってきますが、幸い森までは入ってきません。木に昇ると、村々が見えます。緑のよさみが原の台地に森とため池が広がっています。

 刈谷の実家へは松本どんの足でも半日もかかりません。が、謀反(むほん)の身です。見つかれば、父母や妻子にどのような累(るい)が及ぶか分かったものではありません。しばらくは養生をすることにしました。初雁はかいがいしく世話をやいてくれます。

「この先の野田村の八幡宮に榊原という宮司がいる」

 松本どんは言いました。

「この書きつけを届けてもらいたい」

「コーン」

初雁は手紙をくわえると、西に向かいました。これまでのいきさつを書きとめた書面です。自分の居場所は知らせていません。

「一死をもって千古に生きようとした」

 松本どんは目を閉じました。八月半ば、夜半に船で大阪を出ました。一月半前のことが、昨日のように思い出されます。

「ところが今は追われる身か。皮肉なものよ」

 倒れた同志の叫び声が耳に残っています。血のにおいが消えません。同志の無念を思うと、国の夜明けを見るまでは、死ぬに死ねません。

 水田のよさみの原が夕日に染まりました。初雁がみくじをくわえて戻ってきました。

「コーン」

八幡宮のみくじには「小吉」とありました。

 手紙を受け取った榊原宮司は、松本どんの無事を喜びました。野田村の自宅にかくまっていた勤皇の志士三人に手紙を見せました。

「見回りがきびしいから、どこぞに潜んでいなさるにちがいない」

村上という名の志士が言いました。

「刈谷と吉野、長州に行ってくれんか」

宮司が言うと、村上ら三人は旅立ちました。

歌をかなでる松本どん

 翌朝、三、四人の気配がします。追っ手ではなく、お百姓のようです。

「松本どのは長州に落ちのびたそうじゃ」

「吉野で果てたと聞いたが、そりゃあ本当か」

「うん、刈谷ではその話で持ちきりだそうだ」

「長州には桂小五郎どのがいるからな」

 四人が話をしながら近づいてきます。

「するとご公儀はどうなるだ」

「ご公儀」とは江戸幕府のことです。

「中山中将どのも落ち延びたそうだから、どう転がるか分からんぞ」

「中山中将」は天誅組の盟主(めいしゅ)を務めた中山忠光(だだみつ)公です。

「生活が楽になる世になるといいがな」

「ご公儀でも、天子様でも……」

間がありました。

「……おまんまが食えるほうがええ」

「天子様」は天皇のことです。

「寛政の一揆はえらいことだった」

祖父の時代の百姓による騒動です。

「刈谷藩は福島と領地替えだで」

四人の足音が遠ざかります。

 松本どんは長州、今の山口県に逃げ、桂小五郎に組することに伝わっています。桂小五郎は鞍馬天狗の友人で、人気がありました。松本どんは悪い気がしませんでした。

 世話をやく初雁はときどきさびしそうな目をしました。母恋しさでしょうか。父キツネの消息もわからぬということです。

 松本どんは刈谷に残した妻子を思いました。妻はてつといいます。子の甲太郎は三歳になるはずです。

 お国のためとはいえ、十八歳の妻と三歳の子を残したのは、いかにも心残りでした。三歳といえばかわいい盛りです。いかに志を立てようとも、隻眼(せきがん)の軍師と呼ばれようとも、三歳のわが子に会いたくないはずがありません。

 木の枝で三味線をつくり、歌をかなでます。

「土地を得ては天朝に帰し」

 秋風がほおをなぜます。

「功あらば神徳(しんとく)に属し」

 理想を掲げた義挙(ぎきょ)でしたが、人をあやめたのはいけませんでした。傷ついた者の怨念、断末魔に母を呼ぶ声が脳裏(のうり)から離れません。志は立派でも、自分たちのしたことは何だったのでしょう。

 弦をつま弾きます。

「功(こう)を私することあるべからず」

松本どん、刈谷に行く

 傷がいえ、体力が回復すると、松本どんはむしょうに刈谷の家に戻りたくなりました。

 しかし、見回りの目があります。月のない夜を待ちました。手ぬぐいで顔を隠し、人気のない道を西へ向かいました。

 二年ぶりの刈谷の家です。刈谷城の武家屋敷の一角です。後方に小高い森が暗い闇に浮かんでいます。家康の母・於大(おだい)の方の「しいのき屋敷」です。

 軒の陰から様子をのぞくと、暗い行灯に照らされたさびしげな母子の姿がありました。

初雁と松本どん挿絵3

「てつ、甲太郎」と、息で呼びました。

「てつ、甲太郎」と、声を入れました。

ぴゅーと風がなりました。松本どんの声はてつの耳に届く前にかき消されました。

 てつは、甲太郎を寝付けさせたところでした。父のいない甲太郎がふびんでなりません。腹はすかせていないでしょうか。

 松本どんは思わず軒から身をひるがえし、粗末な家へ向かいました。そのとき、背後で人の足音がしました。

 松本どんを追う刈谷藩の侍です。やはり、先頭、長身、ずんどうの三人でした。

「松本め、やはり来おったか」

 先頭侍が声を上げました。家に立ち寄ると見越して、夜も見張っていたようです。

「ま、待て」

驚いた松本どんは何とかなだめようとします。

「話しをしようではないか」

切り合いはこりごりです。

「問答無用」

長身が刀を上段に構えました。先頭とずんどうは左右に分かれ、中段の構えです。

 松本どんは一目散に逃げ、三人は、それっと、追いかけてきます。

 足の不自由な松本どんは逃げおおせません。ほどなく三軒隣の米問屋の倉に追い詰められました。倉に出口は見当たりません。

「袋のねずみ」という言葉が浮かびました。

土井の殿様

 東吉野の山中で近い距離から鉄砲に狙われたことが思い出されました。松本どんが辞世(じせい)の句を預けた同志が幕府方の銃弾に倒れました。

「辞世の句」というのは、死んでいくときに残す言葉のことです。胸に二発の銃弾を受けた同志は右目が不自由でした。片目が不自由で小柄であったため、松本どんと勘違いされたのでした。追っ手が来る直前に松本どんは草むらに身を隠し、命拾いをしたのでした。

 しかし、今回はそうはいきません。松本どんは観念しました。

 長身が上段の刀を振り下ろし、松本どんはこれをかろうじてよけました。頭の上で刀が月の光を映し、ぴゅーと風が鳴りました。肉を刀で切られるときのおぞましい痛みが皮膚(ひふ)を脈打ちました。

 先頭が左手から迫ってきます。するとそのとき入り口に人影が立ちました。

「やめーい」

高い声が響きました。三人は振り返りました。

意外に刈谷の土井の殿様が立っていました。三人は思わず顔を見合わせました。

「これは殿っ」

先頭の侍がひざを折りました。長身とずんどうが従います。

「殿っ、家来も従えず、このような場に」

「やめい、松本を切ることはあいならん」

殿様は三人を見据え、言い放ちました。

「しかし、殿のご命で」

先頭侍が口ごもります。

「そのような命は下しておらん。松本どのをあやめることはあいならん」

三人はきょとんとしました。そして言いました。

「ははー」

松本どんの辞世の句

 思わぬ命びろいをした松本どんは、よさみが原の初雁のすむ森に帰ってきました。てつや甲太郎に会うことはできませんでした。

 松本どんの小さな森は「山畑(やまばた)」と呼ばれていました。森にある畑という意味です

 森には池の周りに十数本の松の木がありました。樹齢何百年もの松の木でした。

 松本どんは東吉野の山中を思い出しました。十日足らずの前のことですが、何年も前のことのように思われます。

「君がため 身まかりにきと 世の人に 語り継ぎてよ 峰の松風」

 同志に預けた松本どんの辞世の句です。

「天子のために この世を去ったと 世の人に 語り伝えてくれ 峰に生える松の木に吹く風よ」

という意味です。

 図らずも辞世の句を残した松本どんは、東吉野と刈谷の二回命拾いをしました。

「君がため……」

松本どんは口ずさみました。

「……命死にきと 世の人に 語り継ぎてよ 峰の松風」

と続けました。

 「身まかりにきと」ではすこし弱いように思われました。

 松本どんは二十歳を過ぎたころ江戸の昌平黌(しょうへいこう)で学問を修めました。今の東京大学のようなところです。

 松本どんは文章にこだわります。後世に残るであろう辞世の句です。

 松本どんは半紙を取り出しました。血と汗で汚れていました。辞世の句をしたためた半紙です。

 「身まかりにきと」を筆で消し、右側に「命死にきと」と書き直しました。

「君がため 命死にきと 世の人に 語り継ぎてよ 峰の松風」

 筆を置くと、秋風が松の木を流れました。

てつと甲太郎の家

 先日の刈谷では土井の殿様のおかげで命拾いをしました。が、侍たちはまだ松本どんを捜しています。殿様が、倒幕ののろしを挙げた松本どんを許すことは考えられません。なぜ助けてくれたのかは分かりません。が、松本どんは人目につくわけにはいきません。

 十月も半ばになり、太鼓の音が野田村の八幡宮のほうから聞こえてきます。稲の収穫の秋祭りです。その年は雨に恵まれました。

 山畑を通りかかるお百姓の話し声から、その日は刈谷も祭りであることを知りました。

 てつや甲太郎に会うのは、今日を逃すと難しいでしょう。松本どんは暗闇が迫るのを待って、お百姓の格好をしました。手ぬぐいで顔を隠し、人気のない道を西へ向かいました。

 武家屋敷の一角の松本どんの家です。軒の陰から様子をのぞいても、母子の姿はありません。祭礼ででかけているのでしょうか。

「てつ、甲太郎」

松本どんは小さな声で呼んでみました。やはり答えはありません。

 迷っていると、背後にふいに先頭、長身、ずんどうの三人の侍がぬーと姿を現しました。スッポンのようにしつこいやつらです。

 松本どんはあわてて屋敷に戻りました。玄関にはかぎはありません。すぐに中に入ることが出来ました。

初雁が尻尾を回すとき

 てつと甲太郎がわびしい生活をしている家です。松本どんに後悔と懐かしさが突き上げてきました。しかし、感傷にひたっているときではありません。すぐ三人が追いかけてきました。

 薄暗い中には何とキツネが一匹いました。

「急いでこちらへ」

聞き覚えのある声がしました。

 松本どんが裏口へ駆け抜けると、キツネは

くるりと右回りに尻尾を回しました。すると先ほどの松本どんそっくりの男が現れました。

 そこに、どかどかと三人が屋敷に押し入ってきました。

「松本め、ここで会ったが百年目」

 時代劇のせりふが聞こえました。必死に逃げる松本どんに振り返る余裕はありません。

 松本どんに化けたキツネも裏口を向きました。そこを先頭に背中を切られ、どーんと畳に倒れました。体の下から青白い液体が流れました。男の姿は、白ギツネに変わりました。

 三人の侍はキツネにだまされたと知って、ひーと言って逃げ去りました。

 初雁でした。

「おお、お前だったのか」

初雁はうなずきました。

「死ぬな、初雁」

「いいえ、お別れです」

「松雲院へ行くのではなかったのか」

初雁、変身の術

 松本どんは、今になって親身になって尽くしてくれた初雁を思いました。今の今までキツネだと思って、軽く考えていたのです。

 むかしからタヌキとキツネは化けることの名人と決まっています。

「化ける?」

松本どんはあることを思い出しました。土井の殿様が助けてくれた疑問です。

「では、あの土井の殿様はおぬしか」

初雁は力なくうなずきました。

 松本どんにはもう一つ気になっていたことがありました。

「では、あのため池のときも」

 初雁は目で答えました。

 森のササをザザッと鳴らした人影らしい白いものは、この初雁だったのです。それで尻尾の先がなかったのです。

「先ほどが…、三回目でした」

松本どんは言葉が出ませんでした。

「人間のために三回変身すると…」

初雁の最期の言葉でした。

「……おいとまとなるのです」

 初雁は松本どんのために魔力を使いました。命を削った変身だったのです。

「初雁……」

しかし、初雁は答えませんでした。

 鳥の鳴き声が空にこだましました。見上げると、何百というカリの群れでした。カリがひらがなの「く」の字の形を作り、西の谷の方角へ飛んで行くところでした。

三豊稲荷

 松本どんは、屍(しかばね)をさらした初雁を、小山にほおむりました。

 猿渡川の支流にある小高い丘は県(あがた)と呼ばれる野田村の船着き場あとです。初雁が木の実を取った場所です。古くから伊勢など他の村との交流のあった場所です。

 白キツネを敬ったよさみが原の村人は、そのほこらを「三豊稲荷(さんぽういなり)」と呼び、お供えをしました。二月の初午(はつうま)の日には千本幟(にしき)を立てて、初午祭りが営まれました。

 お供えをする人の群れに松本どんの姿もありました。人々はその人が歴史に名を残した松本どんだということを知りませんでした。

よさみが原の松本どん

 松本どんは素性を隠し、よさみが原で土を耕しました。てつと甲太郎に会うことをあきらめ、かげから見守ることとしました。

 松本どんはがいくさがいやになりました。にくしみはにくしみをうみます。暴力をもってした者は暴力で滅びます。血の臭いのおぞましさは、かいだ者でなければわかりません。

 夢見た新しい世は、それから五年後に訪れました。しかし、松本どんはさほどの感動を覚えませんでした。生活も変わりません。

 松本どんは明治の世を見て、まもなく結核(けっかく)で亡くなりなくなりました。最後まで気がかりにしたのは、妻子でした。

 榊原宮司とごく親しい人が供養をし、山畑の池のほとりに埋めました。三豊稲荷から南へ十五分ほどの場所です。

 木の墓碑に名前は入れられませんでした。

鞍馬天狗になった松本どん

 吉野と長州に出かけた同志が、松本どんが東吉野で倒れたことを伝え聞きました。松本どんも東吉野で死んだと世に伝わることを望んでいました。歴史とは事実ではなく、事実として伝えられた伝承です。

 水野、松平、稲垣を経て三浦を継いだ土井の殿様は、江戸幕府が倒れると、土地と領民を天皇に返しました。侍の時代が終わりました。大政奉還(だいせいほうかん)です。

 明治六年に大阪で天誅組を扱った芝居「新織大和錦(にいおり・やまとにしき)」が演じられました。刈谷の大黒座(だいこくざ)では松本どんを主人公に天誅組ものが演じられました。万吉という家来も作り出されました。東吉野の山中で壮絶(そうぜつ)な死をとげた松本どんは、ヒーローになりました。

 松本どんの辞世の句は、戦争中に「愛国百人一首」に選ばれました。

 いち時は国賊と呼ばれた松本どんは、あがめられ、鞍馬天狗並みの扱いを受けたのです。

松本どんのなきがら

 明治の初めによさみが原に鉄道が敷かれ、学校ができました。大正時代に電気が通じ、電灯が家々を照らしました。

 昭和の始めにバスが走り、遠くヨーロッパと通信するための大きな送信所ができました。

 松本どんのなきがらが埋められた場所は東海道新幹線の工事が行われた一九六三年ごろに一度、掘り出されそうになったことがあります。天誅組からちょうど百年目、松本どんが亡くなって九十年が過ぎていました。

 母親と畑を耕していた十歳くらいの男の子が鍬(くわ)でなきがららしきものを掘り当てました。男の子は三郎といいました。なきがらは赤と白の着衣でくるまれていました。

 驚いた母親は面倒を恐れ、犬のなきがらと言い含めて埋め戻しました。

「あれは確かに犬だった」

 母親は何度も念を押しました。

「うん」

 三郎はうなずきました。しかし、あまり念を押されるとかえって疑問がわくものです。

 三郎は成人し、母親が亡くなってからもそのなきがらを夢に見ました。その正体への疑問を忘れることができませんでした。

よさみが原に吹く風

 平成の世のよさみが原に、キツネとタヌキ、森とため池の当時の面影はありません。

 松本どんのなきがらが埋められた場所は、池が埋められ、森が削られました。道路が走り、建物が立ち、地名が変えられました。

 中年となった三郎はその場所を探しました。しかし、分からなくなってしまっていました。松本どんのことは知りませんでした。

 松本どんを知っている人も、松本どんの世話をした初雁を知っている人も、いなくなりました。風景も、人も、時代も変わりました。

 それでも、よさみが原の田に吹く秋風ばかりは、百五十年前とちっとも変わりません。

 今も、刈谷城跡の亀城公園には松本どんの辞世の句の石碑が、小高い森の中には三豊稲荷がひっそりと建っています。 (了)

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