重原陣屋の跡 下重原町5丁目

 
 寛政の一揆によって刈谷藩は、幕府から村替えの処分を受け重原村、野田村、半城土村、高須村、小垣江村、犬ケ坪村等18か村を、奥州の福島領・幕領の一部と交換することになり、以来福島藩はこの地に陣屋(現在の愛知中央農協重原支店の所にあった)をおいて郡代により三河の飛地を治めた。浄福寺の前に「重原陣屋の跡」の石碑がある。
 この碑とならんで「従是東福島領」(これより東、福島領)の碑が建てられている。「従是西福島領」は、知立市のあいち中央農協上重原支店裏にあり、もとは東海道筋 の福島領の東と西の端にあったものと思われる。福島藩三河分領は、明治2年(1869)三河国に 150か村を与えられた重原藩が誕生、やはりここを陣屋として治めたが、明治4年(1871)廃藩となった。陣屋で使われた門は、半城土町の願行寺の山門に、玄関は十応寺にそれぞれ移築されている。

加藤与五郎博士 野田町西屋敷

 
 フェライトの父、日本のエジソンと仰がれている加藤与五郎は、明治5年7月2日、野田村西屋敷で農業を営んでいた加藤惣吉の長男として、この地に生まれ た。
 野田小学校、亀城高等小学校などを経て、同志社ハリス理化学校に独学で入学、卒業後東北学院の教師になったが、のち京都帝国大学に入学、卒業をまって米国に留学、電気科学を研究して帰国、東京高等工業学校教授となり、理学博士の学位を得た。
 以後300余りの研究を成し遂げたが、中でも強磁性酸化鉄フェライトは、昭和5年東京工業大学在職中、武井武教授との共同研究により発明され、現代の エレクトロニクスに不可欠なものとなった。
 与五郎はつねに独創的研究の重要性を唱え、私財を投じて財団法人加藤科学 振興会などを開設して後進の指導にあたった。その業績に対し、国から文化功労 者の栄誉を与えられた。昭和42年熱海の自邸で永眠、刈谷市の昌福寺で葬儀が営まれた。
現在、刈谷市野田町西屋敷に氏の生家の跡がある。

加藤与五郎年譜

依佐美送信所 高須町山ノ田


 昭和4年(1929)およそ70万坪(約230ha)の地域に長波用空中線鉄塔8基1組と、他に短波用空中線10組を備えた依佐美送信所として設立される(送信機はドイツ、テレフンケン社製。鉄塔は高さ250m,底部絶縁球状承軸式=削った鉛筆を立てたような形、一辺3mの正三角柱形の組立式で8基。鉄塔2列間の距離は500m、16条の空中線で結ばれている)。
 以来、刈谷八景にも数えられ、ことに夜景は、遠く岩津・武豊方面からも望まれ、依佐美の鉄塔としてよく知られている。
 第二次世界対戦後日米安保条約によってアメリカ軍に使用されていたが、平成6年に返還されました。平成9年3月には、8基の鉄塔が全て撤去され、現在は10分の1の高さ(25m)の鉄塔が1基記念に設置されています。

▲8基の鉄塔


▲記念鉄塔