1.依佐美送信所日本無線電信会社の設立
 第一次世界大戦中、貧弱であった対外通信施設によって、日本は大変な不利不 便を被った。大正八年(1919)に内田嘉吉等が、日米間に海底線及び無線電信を民間会社の手で施設したいと提唱し始めた。これは、海底電線は中継が多い ため誤りが多くなることや、時間がかかったことによる。そこで9、10年に対米磐城無線局(富岡受信所及び原ノ町送信所)を建設し、はじめて対外通信機関を 所有した。それまでは、外国電信会社の所有する海底線、つまりイギリスの東方拡張電信会社経営の東方線、デンマークの大北電信会社経営の大北線、アメリカ の太平洋電信会社経営の小笠原線の三つのいずれかを使用しなければ外国との通信はできなかった。この磐城無線局の建設によって、日本は第三国所属の通信機 関を経由することなしに邦国と直接通信を行なうことができたが、この無線局は応急的施設であって十分に機能を果たしていなかった。政府は完全な直接対外通 信機関を建設しようと努力したが、戦後の立て直しに忙しく、財政逼迫に苦しんでおり、通信機関建設にかかわる多額の経費を必要とする事業になかなか着手す ることができなかった。日米の通信機関を民間の資金によって増設したいという内田嘉吉の提唱は、ようやく経済界の世論となり、対外通信機関の充実というこ とが国民要望の焦点となった。このような状況のなかで、逓信・大蔵・外務・陸海軍の各省関係官と内田等との公的会合となり、ついに14年2月、政府は第500議会に「日本無線電信株式会社法案」を提出し、この法案は大多数をもって両院を通過した。同年三月に法律第30号により外国無線電報を取り扱うことを目 的として公布され、10月には日本無線電信株式会社が東京市麹町区丸ノ内2丁目18番地に設立された。


2.対欧無線電信所設立候補地に依佐美村
それより先、対欧無線電信所設立場所の候補選定中に依佐美村を第一候補地と して実地測量をし、敷地買収を終え、工事に着手するため多数の逓信省官吏が出張してきたが、大正12年(1923)9月1日に関東を襲った関東大震災によって政府は壊滅状態に陥り、国家の手によってこの工事を成し遂げることが不可能となった。この折、日本無線電信会社が設立され、同社によって再度計画が立てられ、政府は先に買収した土地を同社に出資して政府の監督援助の元に工事が遂行された。
 これらのことによって、13年7月、依佐美村村長宮田作次郎は村民155名と連署して、逓信大臣犬養毅に対し、送信所の道路及びそれに付帯する工事を請け負わせてほしいと嘆願している(『近代資料編』528〜529頁)。
依佐美村を選定した理由について、『刈谷市誌』では(1)通信等は中央で通信するのがよく、そのため東京が最適であるが、天災地変の場合を考えると一か所集中は不適である。(2)長波送信所敷地として、広大で堅く平坦である土地が必要で ある。(3)送信所は大電力を必要とし、名古屋は大電力送電線の集中地というべき地であり、優秀な電力を安価に得られる。(4)ヨーロッパ対手局に対する大圏方向 の角度に山がなく、通信に適している。(5)長波については、受信所と送信所が大圏をもって連絡する線に対し、約30km以上離れているのが望ましいという条件が依佐美と四日市に適している。(6)送信所の建設について大量の運搬と労力を必要とするから、それらが容易に確保できること。と以上の6つの条件 を挙げている。これらの条件を依佐美地区が備えていたのである。
 しかし、15年には、この無線電信局が東京付近に移転するといううわさが 生じた。これに対して、依佐美村第三区長江坂広太郎・第四区長加藤謙太郎よりこのうわさに対する善後策を依佐美村として充分に講じるように申し出た。両区 長は依佐美村に無線電信局が建設されれば幾分かの収益があると思われるが、村として尽力すればその収益をどのようにするか、また無線電信局建設の土工請負 奔走のために大字高須で約1,000円、大字半城土で2,300円を既に消費しており、それを補填しなければならないため、それを補填してもまだ余裕のあるときはどうするかと重ねて質問した。それに対して村長石川九郎吉は村において善後策を講じ、依佐美村に無線電信局が設置されることになれば、その収入は将来村と関係大字で折半するようにしたいと、8月19日に村会議員を集めて協議することにした。


3.送信所の建設工事
送信所の建設工事は、昭和2年(1927)に着工した。それに先立ち建設機 材等の運搬のために、三河鉄道小垣江駅より臨時に建設現場まで専用鉄道を敷設することにし、同年3月31日付で政府に申請している。このあと同年4月12日付で愛知県知事柴田善三郎より鉄道大臣井上匡四郎へ「専用鉄道敷設免許ノ件副申」が出されている。これによって、5月3日に鉄道大臣小川平吉より「昭和二年八月二日迄ニ着手シ、昭和三年三月二日迄に竣工スヘシ」として、依佐美村地内に専用鉄道の敷設が免許された。
 専用鉄道敷設免許申請書によると、短期間に鉄材・セメントをはじめ、工事用の諸材料及び器具・機械運搬、並びにこれらに伴う多数従業者の物資供給を必要とし、またこの地方は完全な道路もなく、膨大な輸送は困難であるため、三河 鉄道小垣江駅より分岐し、依佐美村大字高須までに至る1マイル41チェーン(約2.4km)の専用鉄道を敷設するとしている。建設予算は、62,000円というものであった。運搬予定材料は、砂利・砂、栗石が47,200t、セメント4,500t、鉄材4,430t、建設材料1,500t、機械類500t、雑品370t、計58,500tで、蒸気機関車によって、日の出・日没間に1日8両連結を4回運転する予定であった。

 工事方法としては、動力は蒸気、軌道は3フィート6インチ(約106.7cm)で単線、軌道中心間隔は12フィート、最小曲線半径は10チェーン、最急勾配は50分の1であった。小垣江・高須間に橋梁が1か所あった が、長さは15フィートで、橋台及び上脚桁ともすべて木造であった。運搬用の 車両となる機関車及び貸車は、すべて三河鉄道株式会社ですでに認可されているものを使用した。
 施設工事を行う前に2年3月に三河鉄道株式会社と日本無線電信株式会社によって工事契約書を作成している。これによると、工事は日本 無線電信株式会社の負担によるものとしている。また、連絡施設を設置する三河 鉄道株式会社所有の用地に対しては、三河鉄道株式会社の指定する使用料を日本無線電信株式会社が納付することになっていた。このほか、三河鉄道株式会社の 必要により施設物件を移転・変更するときは同社の負担とし、その他の必要による場合は日本無線電信株式会社の負担とした。連絡設備の移転・変更・廃止のため不要となった物件は、日本無線電信株式会社の費用によって撤廃し、その撤廃 した材料については後で協定するとしている。

この契約は専用鉄道敷設免許の日より6か月以内、つまり2年10月までに工事 を実施しないときは契約の効力を失うものとしている。運転信号保安は三河鉄道株式会社の規程を準用した。列車運転場の事故に対して、鉄道係員の過失によっ て生じた場合は三河鉄道株式会社が責任を負った。
 2年5月3日付で専用鉄道敷設免許を得て、その翌日から早速建設工事に取 り掛かった。敷設工事は、5月19日に完成した。その後、6月15日に高須積卸場構内において、建設材料運搬の都合により側線の増設を届け出ている。また、7月5日には、転轍器(線路の分かれる所で、列車や電車の進む道を変えるためにレールを切り換えるもの)と轍叉4組の内1組を在庫の都合により50封度のものを使用し、径間15フィートの木桁橋を径間14フィート9インチに工事上の都合により変更したいと願っている。これによって、7月11日に運輸開始が認可された。
 工事は無事終わり、運転を開始し材料等を運搬した。これも9月30日を限 りに終わり、運転を廃止し、鉄道敷設免許を返上し、直ちに軌道撤去に取り掛かった。


4.無線電信工事開始
 敷地は日本無線電信株式会社の所有するものとして約48,300余坪であ った。空中線鉄塔のような工作物やその他の工作物を合わせ、支持策を引き留めた所を直線で結んだ圏内に入る地域と送信所本館・送信室、その他の建物の敷地 を合わせると100万坪にもなった。
工事は、(1)アース工事、(2)空中線及び鉄塔工事、(3)送信所本館及び送信室、の3つに分けられる。

 まず、アース工事は、縦1,760m、横880m、面積154万8,800m2の地域の地下を最低60cmの深さで掘った。縦は55m間隔で直径約4mm、横は10m間隔で直径約2.6mm硬銅線を網の目状に敷き詰めて、数百本の架空線に接続 して送信室に引き込んだ。このアース工事に使用した銅線の長さは47里(約188km)にも達した。
 空中線及び鉄塔工事は送信施設建設の中で最も大掛かりなものである。鉄塔 の高さは250mで、図のように4基ずつ2列に並び計8基ある。1基の鉄塔は図のようにメッセンジャーワイヤーで結んでいる。鉄塔の基部に当たるところは逆三角形で細くなっており、先は球状受軸式になっていて、基部と接触する形でつながっている。
 送信所本館と通信室はどちらも鉄骨または鉄筋コンクリート建であった。送 信に必要とする電力は東邦電力株式会社から60サイクル三相三線式交流3,300ボルトのもの最大1,000kwの供給を受けるものであって、同社はこのために送電設備を新設した。

依佐美送信所の土地使用に関し、昭和7年(1932)土地所有者と賃借契約 を結んでいる。これによると、7年6月より最初の2年分を前払いし、その後は2か年分を一括して当該年度の12月に支払うようにしている。この借地料は、 第2回目以降に支払い当時の米価と著しく差異がある時は、支払い当該年度及びその前年度の12月中の平均相場によって決めるものとしている。また、貸借期 間は、建設を始めた月より向こう10年とし、送信所の建設または保守により付近の農作物等に損害を与えたときは、双方善意の協議によって会社側がこれを保 証すると定めている。


5.送信方法
 送信については、全国の外国電信取扱局で受けた欧州行電報は名古屋無線電信局に送られる。これを電信符号通りに送信テープに鑽孔して無線送信機にかける。そして名古屋無線電信局と対欧依佐美送信所の送信機を自動的に操縦して、電波を直接ドイツに向かって発射した。ドイツまで約40分で無線が届いたといわれる。
 この通信設備に相対して、欧州からの直接受信を行なうために、受信設備が三重県三重郡海蔵村(現四日市市)に建設された。
 依佐美送信所の通信局名はロンドン(イギリス)、ベルリン(ドイツ)、パリ(フランス)、ワルシャワ(ポーランド)、ジュネーブ(スイス)で、それぞれ時間は約40分かかった。  


6.無線電信の運用と拡張
 昭和3年(1928)11月に出された『日本無線電信株式会社第六期営業報告書』によると依佐美送信所の建設状態について次のように記されている。
 依佐美送信所ハ前期ニ引続キ局舎社宅ノ建築、鉄塔ノ建設、空中線ノ架設ニ従事致シマシテ今期ニ及ビ大略竣成シマシタ。特ニ鉄塔の建設及空中線ノ架設ノ作業ハ本邦稀レニ見ル難工事デ御座イマシテ、土木事業界ノ斉シク注目スル所デ御座イマシタガ、幸ヒ何等ノ支障ナク予定以上ニ順調ニ進行シテ無事建設ヲ了リマシタ。此処ニ設備致シマス長波長送信機ハ高周波電動発電機壱台ヲ除ク外大体据付ヲ了リ、目下各機器調整並ニ電波発射試験中デアリマス。更ニ尚ホ短波長送信機一台ヲ設備致シマシテ目下試験中デアリマス。
 このように建設の順調な進行の様子を示すとともに、大工事であったことも 表している。
 これらの施設は、4年3月に完成し、同月15日より運用を開始した。また18日には、内田嘉吉社長臨席のもと、盛大な開局式が挙行された。その後、10年になり短波需要の増大によって短波専用局舎の新設に着手し、翌年完成した。13年には国際電話株式会社と合併し、国際電器通信株式会社となった。同年に短波空中線75m自立式鉄塔5基、14年には短波空中線用85m自立式鉄塔五基を新設した。16年頃になると長波は主として日本海軍の対艦通信専用となり、短波の一部を含めて日本海軍の専用するところとなった。20年終戦となり、通信業務は在外部隊との連絡以外は途絶された。


●無線の鉄塔  ●鉄塔の歴史年表  ●アンテナ線撤去・解体工事